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小説版・ココロノヤミ・17

バー こんなにリラックスできる人は始めて?ならば、大石はどうなのか。私にとって家族以外で一番、と言ったら大石の筈だった。なのに何故。私は本当に自分が感じている事を言葉にするのが恐かった。大石といると嬉しいし、安心もするのだが、本当は疲れるのだ。もちろん、自分が恋焦がれている相手なのだから、一緒にいると神経を使って疲れるというのもある、とは思うのだが、阿部と毎週会うようになってから、大石といる時の「疲れ」をどうしても意識して考えてしまっていた。「阿部のような人と結婚して一緒に暮らすのはラクだろうなぁ」などと考えては、はっと我に返り、私は大石が好きなのだ、結婚なんかしないで一生大石と付き合っていくのだ、と自分に言い聞かせる。そして、そう言い聞かせているという事に、また愕然としたりしていた。阿部と出会っていなければ、大石との事をこんな風に考える事もなかっただろう、と思うとちょっと恐い気もした。私はその「疲れ」に一生気付かなかったかもしれないのだ。自分の心の中に沈殿させたまま。

酔った頭でそんな事をぼーっと考えていた時だった。「えーあのー、そのうちに、でいいんだけど、結婚しようか」と阿部がぼそっと言ったのが聞こえた。「はぁ?」と間抜けな返答をした私に、阿部は耳まで赤くなって「いや、えーと何て言うか」とむにゃむにゃ言って俯いてしまった。「あのさー、阿部さんの悪い癖よねぇ、そういうの。言いたい事はちゃんと最後まできちんと言いなさいよねー」と、私はつい、いつもの調子で阿部に毒づいていた。が、頭の中は思考回路が渦巻きになっていた。「だって、私と阿部はキスどころか手も握った事ないんだし、今までだってそれらしい会話なんて全然なかったのよ。それで何でいきなりこういう展開になるわけ?どうすればいいのよ、え?」とグルグルする頭で考えながら、しかし心の中は暖かいもので満たされていた。頭ではなく、心で感じていた。「気持ちがいいなぁ、こういうのをバラ色っていうのかしら」それは私が今まで経験した事のない、初めての感情だった。世間では多分「愛情」と呼ばれているものだったのだ。

その日、それからどういう会話をしたのか、私も阿部も全く覚えていない。私はちゃんと承諾の返事をしたのだろうか。しかし、気付いた時にはもう結婚するという前提のもとに、お互いの両親に会ったりしていたのだった。驚いたのはもちろん大石だ。帰国してからも大石は忙しく、成田に着いた、という電話の後はすっかり連絡が途絶えて一週間が過ぎた。新しいプロジェクトチームに配属されての帰国なのだから、忙しいのは当たり前なのだが、聞けば大石の実家にもまったく連絡はないと言う。結局大石と会えたのは、帰国後一ヶ月がたってからだった。やっと取れた休暇で、東京からN市にもどった大石は、少し痩せて精悍な感じがした。いかにも企業戦士らしく、目に力を感じたのは、私がもう阿部とのゆるやかな日々にどっぷりと浸かっていたからかもしれない。会えばやはり私は大石が好きだった。好きで好きで仕方がない、と思った。けれど、大石は開口一番こう言ったのだった。

「雰囲気変わったなぁ、チサト。」「そう?また一段とキレイになったかしら」と茶化す私に大石は真顔で「いや、キレイって言うか、ゆったりしてるって言うか、包み込まれるような感じがするよ。何かあった?」と聞かれてしまって、私は早々に白状する他なかった。まだついこの間、なりふり構わず大石に縋り付いた私の口から、いきなりそんな事を聞かされて、大石はさすがに動揺を隠せない様子だったが「そっかー、ちょっとショックだけど。でも良かったよ、チサトにそんないい人が現れて。そりゃ王子様だなぁ。」私は阿部の王子様姿を想像して思わず吹き出して大笑いしてしまったのだが、大石は嬉しそうに「そうそう、そういう笑い顔だよ、チサトの魅力はさ。ボストンに来た時はギスギスしちゃってて、どうしようか、って感じだったもんなぁ。あれから俺も色々考えたけど、やっぱりチサトがずーっと一人でいる、ってのが引っ掛かってたからさ。おじさんもおばさんも喜んでるだろ。それにチサトがそんな風に笑えるようにしてくれた王子様には、俺も感謝しなきゃ、な」と言った。

大石はさほどショックでもなかった様子で、どちらかと言えば安心してホッとしていた。その証拠に、夕食を済ませると私をバーに誘った。そこは、大石がまだいた頃よく行っていたバーで、雑居ビルの地下にある古くて小さな店だったが、オーナーのセンスが良いのかインテリアも物静かに凝っていて、とても居心地がよかった。マスターももう一人いるバーテンも口数は少ないが、ツボを心得た会話を楽しませてくれる男だった。しかし、私は大石がいなくなってからは一度も足を運んだ事がなく、本当に久し振りだったのだが、店も人も全く変わっていなかった。「いらっしゃいませ」と言うマスターに大石は軽く頷いて「何にする?」と私に聞いてきた。「水割りでいいよ」と言いながら私は、何か妙だな、と感じていた。大石も勘が鋭いが、私も大石の事に関しては長年の習慣で勘が鋭くなっていた。


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